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京都府中小企業モデル工場 新たに2社指定

『はじめに眼ありき』
〜理想のコンタクトレンズを求めて〜

 

 シリーズ第2回の今回は、理想のコンタクトレンズを求めて、日本で唯一カスタムメイド(あつらえ)のコンタクトレンズを製造する株式会社サンコンタクトレンズの代表取締役社長 大橋敏夫氏を訪問しました。

 

天職に巡り会う

 アメリカから日本に初めてコンタクトレンズが紹介されて間もない1957年の春、当時勤務していたナカノ眼科の中野信夫先生から「コンタクトレンズを勉強してみないか。」と話を持ちかけられました。

 初めてコンタクトレンズを装用していただいたのは黒目の表面にでこぼこがあって(角膜不正乱視)眼鏡では視力矯正できない患者でした。すると、なんと視力表でが1.2まで見えたのです。本人も私達もびっくりし、感動しました。私は人間というのは誰でも必要とされて生まれてきているのであって、何かやる必要のあるものがあるはずと考えていました。コンタクトレンズに巡り会ったとき、まさにこれが天職だと思いました。

 

 

コンタクトレンズのプロ

 普及当初、コンタクトレンズは大学病院等で医学的適応症の患者さんに慎重に処方されていました。ですから私は、一般の眼科の先生よりも早く本格的にコンタクトレンズに取り組みはじめたことになります。
 
  しかも、眼科の先生は診療が本来の仕事であり、私はコンタクトレンズのプロです。プロがアマチュアに負ける訳にはいきません。そのころ大卒の初任給が1万円でしたが、コンタクトレンズは両眼で8千円でした。こんなに高価でも見えるようになるから喜んでいただけます。しかし、つけているうちに痛いとか、くもるとか言われると、何か申し訳ない気持ちになります。視力矯正効果は理想に近いものですが、はめられなかったらなんにもなりません。なんとか解決する方法がないものかと常に考えていました。

 

カスタムメイドのコンタクトレンズに出会う

 当時は映画産業が盛んな頃で京都太秦の撮影所から萬屋錦之介のメイキャップ用のコンタクトレンズの受注を受け、日本のコンタクトレンズ業界で先駆的な日本コンタクトレンズ研究所(名古屋市)を訪問しました。小さいモーターのついた小型研磨機を使って研磨していたのです。歯科医は、義歯を製作するときに、まず型をとって義歯を製作し、一度かぶせてみて、噛み合わせなどを見ながら微調整していきます。この作業がコンタクトレンズにはありません。メーカーが目も見ずに作ったコンタクトレンズの中から適当と思われるものを選択してはめていたのです。本当は一枚ずつ人間の手で微調整して合わさなくてはいけないのです。

 そこで、その小型研磨機を購入し、微調整したコンタクトレンズを患者さんに入れてみると、患者さんに「まるではめてないみたい。」と喜ばれました。そんなはずはないのですが、今までそのくらい異物感を我慢してきたということだったのでしょう。  その後、1959年、日本コンタクトレンズ研究所に入社を薦められ、お世話になることにしました。

 その会社の営業はいろんな眼科を訪問していました。私も営業を希望し、小型研磨機を持っていろんな眼科へ足を運びました。やはり調子の悪い人が多く、眼科の先生と一緒にコンタクトレンズを直して、患者さんに大変喜ばれました。眼科の先生は目の悪いのは治せてもコンタクトレンズの悪いのは直せませんので、眼科の先生にもすごく感謝されました。

 

いろんな人の援助を得て会社設立

 今から32年前、アメリカからソフトコンタクトレンズが入ってきました。そのときに日本中の眼科の先生がソフトコンタクトレンズができたらハードコンタクトレンズはなくなると考えていました。しかし、コンタクトレンズが生まれてきたのは、円錐角膜など本来眼鏡では視力が得られない人のためです。これらはソフトコンタクトレンズでは対応できません。ビジネスとしては成り立っても本来使い方が違います。結局私は会社の上層部と意見が食い違い、同僚と3人で会社をやめてしまいました。さらに一週間後、その会社にいた3人が入れてくれとやってきました。そこで会社を設立することにしました。資金はなかったのですが、いろんな人から援助をしていただきました。おかげで、1年目から黒字を出すことができました。

 

画期的な「フォトケラトスコープ」の開発

 1977年、京都府立医大の教授から円錐角膜の記録を残すための撮影装置の依頼を受けました。そして大手カメラ会社から転職してきた技術者がその教授と共同で、角膜全域の形状を撮影する装置「フォトケラトスコープ」を世界で初めて開発しました。この装置により、カスタムメイドレンズの精度がさらにアップしました。それまでは業界の関西一円では知られていましたが、この装置の開発により日本中に知られるようになりました。1982年には、国際眼科学会(サンフランシスコ)に展示し、最小のブースに最大の来場者を迎え、高く評価されました。その後入洛された欧米やアジアの眼科医が多数来社しました。

 

 

 

1枚1枚シミュレーション、微調整

 同業他社は装置産業化し、大量に安価なレンズを生産していますが、当社は角膜の写真を撮って、角膜の形状を把握し、どんなコンタクトレンズがその患者によいか1枚1枚シミュレーションをした後、機械で生産しています。そしてそのレンズをベテランの社員が肉眼でチェックし、微調整します。また、生体に装着するものですから、レンズを作ったときにはうまく合っていても、体調や生活環境の変化によっても、装用状況が微妙に変化することもあり、当社では眼科医の指示でそのときの状況に合わせてレンズを切削、研磨するサービスを無償で行っております。購入後のサポートは当社創立以来ずっと行っているサービスです。世界中のコンタクトレンズメーカーの中で最も非効率な生産、販売方法だと思っています。

 

世の中から喜ばれることを

 本来コンタクトレンズは目にとって異物ですから、目に合うコンタクトレンズを選ぶのではなく、コンタクトレンズをそれぞれの目に合わせてつくるべきです。ですから当社はそれぞれの目に一枚ずつのコンタクトレンズをつくってきました。良いことをやっていたら、そのときはすぐに効いてこなくても角道が効くみたいにきっと後で効いてくると思っています。そして、会社が存続・発展するかどうかは、社会が決めることで、自分たちがやっていることが本当に世の中から望まれているかどうかということで決定されます。その報酬として発展してゆきたいと望んでいます。

 

〜取材を終えて〜

 信念の人であった。「世の中の人に喜ばれたい。世の中に必要であれば会社はつぶれない。」コンタクトレンズとの出会いが大橋社長の進むべき方向を決定した。結果としてそれはニッチとなった。同社のノウハウ、データは他社の追随を許さない。歯科で自由診療が増加してきている中、大橋社長の信念は今後さらに花開くことが期待される。

 
D A T A
株式会社 サンコンタクトレンズ
表取締役社長 大橋 敏夫
所 在 地 〒604−0983
京都市中京区麹屋町通夷川上ル475
TEL    075−221−6861
FAX 075−221−7810
URL http://www.sun-con.com
資 本 金 3,200万円
従 業 員 174名
事業内容  コンタクトレンズの研究、開発、製造及び販売等
設  立 昭和46年10月

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